この写本は1947年に、若い羊飼い Muhammad edh-Dhib によって発見された。洞窟からヤギを出そうとして洞窟に石を投げ込んだところ、その石が、およそ二千年間巻き物を収めていた多くの陶器の一つに当たったのだ。1951年よりヨルダン考古遺跡局長のG.L.Hardingによる指揮下で行われた考古学的な発掘調査と、ベドウィンの現地住人の調査により、11の洞窟から資料が発見・回収された。1955年2月13日にイスラエルは7つの主な死海文書のうちの4つを手に入れた。
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多くの文書が驚くべき早さで公表された。第1洞窟で発見された全文書は1950年から1956年までに公刊され、8つの洞窟で発見された文書は一冊にまとめられて1963年に公刊され、第11洞窟で発見された詩篇写本は1965年に公刊された。次いで、これら資料の翻訳も早急に行われた。
第4洞窟で発見された文書だけは例外で、全体の40%しか公表されなかった。これらの資料の公刊は、エルサレムのドミニコ会の神父ロラン・ドゥ・ヴォーが率いる、国際チームに任されていた。このグループは委託された資料の1巻目を1968年に公刊したが、公刊よりも資料についての自説の弁護に多くの力を費やした。これら資料の編集・出版に開始当初から関わっていたゲザ・ヴェルメシュは、公刊のための作業が遅れ最終的に失敗したことについて、ドゥ・ヴォーが人選したチームが彼が行おうとしていたようなレベルの仕事をこなすだけの能力を欠いており、また、作業を速やかに遂行するにあたってドゥ・ヴォー個人のほとんど家父長的な権威に寄りかかってしまったからだと批判した。
結果として、第4洞窟で発見された文書は長年にわたって公開されなかった。文書へのアクセスは「守秘ルール」によって制限されていた。そのルールは、オリジナルの国際チーム(または彼らが指名した者)のみにオリジナルの資料の閲覧を許可するものだった。1971年にドゥ・ヴォーが死去した後も、彼の後継者達は外部の学者に判断させるための資料写真の公開要求さえ拒みつづけた。結局、このルールは破られた。まず、1988年に作られたコンコーダンスが国際チームの外部の学者の手に渡り、そこから再構築された17個の文書が1991年秋に公表された。続けて同じ月に、第4洞窟の資料すべての写真がカリフォルニア州サンマリノにあるハンティントン図書館で発見・公表された。この図書館は「守秘ルール」の範囲外だった。いくらか遅れたものの、これらの写真はロバート・アイゼンマンとジェームズ・ロビンソンによって公刊された(A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls、2分冊、Washington, D.C.、1991年)。その結果「守秘ルール」は無くなり、第4洞窟の文書はすぐに公刊に向けて準備され、1995年に5分冊で公刊された。