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和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) - 明治10年(1877年)9月2日)は、仁孝天皇の第八皇女で、孝明天皇の異母妹。江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室である。品位は二品、薨後贈一品。

「和宮」は誕生の際に賜られた幼名で、「親子」は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に賜られた諱である。家茂死後には落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。

江戸時代はもとより、それ以前に於いて、皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例である

弘化3年(1846年)閏5月10日、京都御所の東に隣接する橋本邸において仁孝天皇の第8皇女として生まれる。 母は典侍・橋本経子(観行院)。閏5月16日、異母兄・孝明天皇より和宮の名を賜る [2]。 父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており、和宮は勅命により橋本邸で養育された。

嘉永4年(1851年)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。


降嫁 [編集]
安政5年(1858年)6月28日、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことに怒った孝明天皇は譲位を表明(その後、8月7日に翻意)し、8月8日には幕府に攘夷を進めるよう命じる内勅を水戸藩に下した。これに対して大老・井伊直弼の主導する幕府は尊皇攘夷を唱える志士や大名・公家への弾圧(安政の大獄)を行う。

こうした状況下で、朝幕関係を修復し国論の統一を図る公武合体策の一環として14代将軍・徳川家茂の御台所として皇女の降嫁が画策された。ただし当初の候補は和宮ではなく、この年に生まれた孝明天皇の皇女・富貴宮であったとされる。

安政6年(1859年)4月27日、和宮の有栖川宮家への入與が来年の冬と内定する。しかし、宮中では5月には議奏・久我建通らが和宮の降嫁を内議。8月に富貴宮が薨去すると幕府の目は和宮に向けられる。年が明けると京都所司代・酒井忠義の使者が橋本邸を3度も訪れるなど、和宮降嫁は水面下で進められていた。

万延元年(1860年)4月12日、幕命を受けた所司代・酒井忠義が関白・九条尚忠を通じて朝廷に和宮の将軍家降嫁を出願。当初、孝明天皇は議奏・武家伝奏に諮った上で、

和宮には既に有栖川宮家との婚約が成立している。
先帝の娘であり異腹の妹である和宮の進退は、天皇の意志のままにはできない
年少の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっている
ことを理由に内願を却下した。しかし幕府は5月26日に重ねて和宮の降嫁を奏請。同時に生母・観行院と伯父の橋本実麗に両名にとっては叔母に当る元大奥上臈年寄の勝光院を通じての説得工作を行った。

橋本実麗は説得に折れ、何事も天皇の思召しに従うと言上。思案に窮した孝明天皇は侍従・岩倉具視に意見を求めた。 岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答した。6月12日、天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が7月18日に「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。

8月7日、和宮は宮中へ上がり縁組を硬く辞退した。既に幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成らなければ朝廷の信義が疑われると苦慮した天皇は久我建通の言を容れ、
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和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代りに降嫁させる。
幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。
と決意した。 また、同13日の九条尚忠に宛てた書翰には、「(降嫁に反対する)橋本実麗・観行院の両名を罰するよう幕府に依頼し、和宮も降嫁の話を断って有栖川宮と縁組しようとしても自分は認めないから、尼になるしか道はない」という旨の文言がある [3]。 天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮はここに降嫁を承諾するに至る。

8月15日、観行院から和宮が降嫁を内諾する旨が奏上される。降嫁にあたって和宮は、

父・仁孝天皇の十七回忌の後に関東に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること。
大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること。
御所の女官をお側付きとすること。
御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること。
御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。
の5か条を条件とした。また孝明天皇は別に、

和宮の提示した条件を遵守すること。
老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと。
和宮の降嫁は公武の熟慮の上で決定されたことを天下に周知させること。
外国との貿易によって国民生活が窮乏しないよう対策を講じること。
降嫁前に和宮の内親王宣下を行うこと。
などの条件を幕府に提示している。だが、早期の婚儀を望む幕府は年内の降嫁を要請。和宮はこれを拒むが、10月5日に孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾する。

万延元年(1860年)10月18日、孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、中山忠能らが縁組御用掛に任ぜられて和宮付女官の選定に入り、宰相典侍・庭田嗣子らが選定された。

文久元年(1861年)4月19日、和宮は内親王宣下を受け、名を親子と改めた [4]。 しかし和宮の下向が近づくと世上では、「降嫁は幕府が和宮を人質とすることが目的で、久我建通らは幕府より賄賂を受け、天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」との噂が持ち上がった。噂を耳にした天皇は10月17日、岩倉具視と千種有文を召し出し、 「和宮について江戸に下向し、老中と面談して事の真偽を確かめると共に和宮の意向が叶うようにせよ」との勅語を与えた。

10月20日、和宮一行は桂御所を出立。東海道筋では河留めによる日程の遅延や攘夷派による襲撃の恐れがあるとして中山道を 江戸へと向かった。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員され た[5]。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。

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2009年05月30日 10:05に投稿されたエントリーのページです。

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